内田樹の研究室

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文化日報への寄稿「パンデミックとその後の世界」

韓国のメディアから「パンデミックとその後の世界」というお題で寄稿の依頼があった。これまであちこちに書いたこととそれほど違うわけではないけれども、韓国の読者が読んでもわかる話をこころがけた。  ポスト・コロナの時代に世界はどう変わるか。この質問に答えることはそれほどむずかしくない。国際政治とか国際経済とか、話のスケールが大きいほど予測は容易である。  おそらくグローバル資本主義はしばらく停滞するだろう、新自由主義は遠からず命脈が尽きるだろう、自国ファースト主義やナショナリズムや排外主義が蔓延するだろう、二酸化炭素の排出量が減って、環境破壊のペースは少しだけ遅れるだろう・・・程度のことはたぶん誰にでも予測がつく。システムが大きいと、それだけ惰性が強いからである。だが、それよりももう少しスケールの小さい事象になると、わずかな入力の変化で、出力が大きく変わることがあるので予測がむずかしい。それでも、変わるとしたら、どこがどう変わるのか、比較的蓋然性の高いことについて予測してみる。...

反知性主義者たちの肖像

「日本の反知性主義」というタイトルはリチャード・ホーフスタッターの名著『アメリカの反知性主義』から借りた。この書物の中で、ホーフスタッターは、アメリカ社会は建国のときから現在に至るまで、知性に対する憎悪という、語られることの少ない情念を伏流させてきており、それは間歇的に噴出してそのたびに社会に深い対立と暴力を生み出してきたという大胆な知見を語った。急いで付言しなければならないが、ホーフスタッターはこれを単純な「知識人対大衆」の二元論として語ったわけではない。経験が教えてくれるのは、知識人自身がしばしば最悪の反知性主義者としてふるまうという事実である。ホーフスタッターはこう書いている。 「反知性主義は、思想に対して無条件の敵意をいだく人々によって創作されたものではない。まったく逆である。教育ある者にとって、もっとも有効な敵は中途半端な教育を受けた者であるのと同様に、指折りの反知性主義者は通常、思想に深くかかわっている人々であり、それもしばしば、陳腐な思想や認知されない思想にとり憑かれている。反知性主義に陥る危険のない知識人はほとんどいない。一方、ひたむきな知的情熱に欠ける反知識人もほとんどいない。」(リチャード・ホーフスタッタ-、...

安倍政権の7年8カ月

 安倍政権7年8カ月をどう総括するかと問われたら、私は「知性と倫理性を著しく欠いた首相が長期にわたって政権の座にあったせいで、国力が著しく衰微した」という評価を下す。  日本は今もGDP世界三位だし、軍事力でも世界五位の「大国」である。国際社会の中では「先進国」として遇されているし、米国の東アジアにおける最も信頼できる同盟国であるという評価も安定している。けれども、日本が「あるべき国際社会」を語り、その実現に向けて指導力を発揮することを期待している人々は国内外を探しても見当たらないし、経済的成功のための「日本モデル」や、世界平和の実現ための「日本ヴィジョン」を日本政府が提示するだろうと思っている人もいない。これだけの「国力」がありながら誰も日本にリーダーシップを求めていない。そのことに、われわれはもっと驚くべきだと思う。...

『沈黙する知性』韓国語版序文

 平川君とのラジオでの対談を収録した『沈黙する知性』の韓国語版が出ることになった。対談本の翻訳ははじめてである。僕の本は30冊ほどが韓国語訳されているけれど、平川君の本もこれで7冊目になるはずである。どうして平川君や僕の本が韓国で読まれるのか・・・考えてもよくわからない(『街場の日韓論』で一応の仮説を立ててみたけれど、自分でも納得できているわけではない)。  もしかすると「あまり多くの人に同意してもらえそうもない変な所見を、教条主義的ではない言葉づかいで述べる」という作法が韓国ではちょっと珍しいのかも知れない(かの地では「きっぱり断言する」ということが知的・倫理的なインテグリティの徴であるようなところがあるから、政治や経済や人事について「もぞもぞ語る」という人はあまりいないのかもしれない。よう知らんけど)。...

小津安二郎断想(10)「記号が受肉するとき」

『早春』に付したもの。  小津安二郎は勤め人の経験がなかった。だからサラリーマン生活は小津にとっては一種の「ファンタジー」だった。背広を着て、満員電車に詰め込まれ、日々オフィスに通うサラリーマンが何のためにそんなことをしているのか、小津にはうまく想像できなかった。小津の描くオフィスが妙に非現実的なのはそのせいである。  どの映画でも、男たちは一列に並んで書類をめくり、女たちは一列に並んでタイプを打つ(ときどき鉛筆やペンで線を引く)。それだけである。たまに重役に書類を届けるだけで、説明も相談もしない。会議もしないし、営業もしない。実際、小津にはそう見えていたのだろう。  けれども敗戦から10年が経ち、日本人のほとんどが会社勤めになる時代が来た。彼らをいつまでも空疎な記号、命のない操り人形のままにしておくことはできない。誰かがサラリーマンを祝福し、彼らを「受肉」させなければならない。『早春』は小津安二郎が(ゼペット爺さんがピノキオにそうしたように)「9時から5時までのサラリーマン」を生身の人間に改鋳する試みだった(それはその6年後に『ニッポン無責任時代』で植木等が生身のサラリーマンをマンガ的にキャラクター化してみせたのとみごと...

小津安二郎断想(9)「問うことの暴力」

『東京暮色』に付したもの。 『東京暮色』は小津作品の中で際だって暗い映画である。常連のコメディ・リリーフである須賀不二男や田中春男や高橋貞二の癖のある芝居に、他の映画では笑いをこらえられない私だが、この映画に限ってはついに一度も笑えなかった。むしろ、しばしば鳥肌が立った。  麻雀の卓を囲みながら、明子(有馬稲子)とその恋人の性関係と明子の妊娠を一場の笑い話にするときのノンちゃん(高橋貞二)の執拗な悪ふざけは、もしかすると俳優高橋貞二の生涯最高のパフォーマンスかも知れない。  ノンちゃんは野球解説者小西得郎の「何とお、申しま~しょうか」という独特の口ぶりを真似て、(ときどき「ポン」と地声を挟みながら)何と映画のストーリーを三分に及ぶ長台詞で説明してしまうのである。これはきわめて異例のことである。小津映画では、観客が知り得ない重要な事実を俳優が台詞で「順序立てて説明する」ということはほとんど起こらないからである。それは「説明」という行為に含まれる本質的な暴力性を小津が嫌って(というより怖れて)いたからではないかと私は思う。...

小津安二郎断想(8)「コミュニケーションの深度」

『お早よう』に付したもの。   『お早よう』は私にとって懐かしい映画である。それが私の生まれた街を舞台にしているからである。実と勇の兄弟が登下校のために歩く多摩川の土手は、私が毎朝犬と散歩した道であり、家出した二人が手づかみで飯を食べるその階段で、私も凧揚げをし、草滑りをして遊んだ。  この街は戦前戦中軍需産業で栄え、それゆえ空襲で徹底的に破壊された。その焼け跡に戦後になって地方出身者が流れ込んだ。私の両親も、近所の人々もそうだった。だから、この街には守るべき祭りも、古老からの言い伝えも、郷土料理も、方言もなかった。 『お早よう』の住民たちもまたそれぞれの出自の徴を残したまま、偶然に導かれてここに集住している。共同体らしきものは「婦人会」しかないが、それは地域の連帯を深める上で機能しているようには見えない。男たちはときおり近所の居酒屋で出会うが、話題は弾まない。わずかな行き違いから隣家との間に深刻な対立が生じることもある。「うまく言葉が通じない人たち」が軒を接するこの住宅地では、それゆえコミュニケーションの成否が死活的に重要となる。...

小津安二郎断想(7)「戦争について語らない男の話」

『秋刀魚の味』に付したもの。  小津安二郎は軍人が嫌いだった。戦争末期、参謀本部に戦意高揚映画の制作を命じられた小津はシンガポールに派遣されたが、何も撮らず、ひたすら押収したハリウッド映画を見続けたという。戦中の『父ありき』、『戸田家の兄妹』にも、小津は軍人を通行人としてさえ登場させなかった。  逆に、戦後の作品では戦争の影が不吉な鳥のように画面の隅を横切ることがある。『長屋紳士録』や『風の中の牝鶏』のように直接的な戦争を扱ったものはむしろ例外的で、平穏な生活者たちの退屈な日常に不意に戦争の影が切り込む、という描き方を小津は選んだ。  遺作となった『秋刀魚の味』は1962年の作品だから、敗戦からすでに17年が経過している。日本は復興を遂げ、男たちは仕立ての良い背広を着て、外車に乗り、銀座の割烹で夜ごと飽きることなく美酒を酌み交わし、娘の縁談話に興じている。けれども、娘を嫁に出したあとに一人残される老父の孤独に話題が及ぶたびに、戦争のイメージが一瞬だけ画面を横切る。...

小津安二郎断想(6)「少年の図像学」

『彼岸花』に付されたもの。  女子大の教師をしていると、学生から結婚についてよく訊ねられる。 「どういう人が夫としてふさわしいのでしょう。」  この問いに私はいつもこう答えている。「男なんて、結婚してしまえば、みんな同じだよ。」   男の社会的成熟度は「社会」において(つまり男が背広を着ているときには)際だつが、家に戻って服を脱いで下着姿になってしまうと、「できる男」も「できない男」も言うことやることにさしたる差はない。結婚した後、女性が見せつけられるのは男なら誰でも違いのないところ、端的に言えば男のいちばん無防備で、幼児的な部分ばかりである。だから、「結婚してしまえば、みんな同じ」なのである。  小津安二郎は成熟と幼児性が矛盾なく同居しているそんな男たちのありようを残酷なほどに写実的に描いた。それは「そのとき何を着ているか」によって男たちのふるまいや物言いや判断さえ変わるというかたちで映像的に示されている。...

小津安二郎断想(5)「悪いおじさんたちの話」

『秋日和』に付したもの  佐分利信、中村伸郎、北竜二、笠智衆が演じる旧制中学高校の同級生たちが、銀座のバーや大川べりの料亭に集まって、さまざまな「悪戯」を企てるという話型は『彼岸花』に始まって、『秋日和』、『秋刀魚の味』と繰り返される。あまり言う人はいないが、この「悪い男たち」定型を発見したことによって小津安二郎はその映画世界を完璧なものにしたと私は考えている。  男たちは小津と同年齢であり、文化的バックグラウンドを共有している。「ルナ」や「若松」は、たぶん小津自身がふだん通っていた場所を再現しているし、そこで行き交う話柄も小津自身が友人たちと交わしていた会話に近い。そういう意味で、この男たちは小津安二郎の「アルターエゴ」である。  けれども、小津の底知れなさは、この男たちを描く筆致のうちに、共感や親しみだけでなく、残酷なほどの写実が含まれていることにある。エリート教育を受け、戦争を生き延び、社会的成功を収めた男たちの、悠揚たる物腰から垣間見える「耐えがたい浮薄さ」を小津は見逃さない。...

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